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今治簡易裁判所 昭和53年(ろ)39号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実は、

被告人は、西日本石油瓦斯株式会社天保山営業所に勤務して、プロパンガスおよび石油類の配達給油等の業務に従事するものであるが、昭和五三年三月二三日午前一一時ころ、軽四輪貨物自動車に電動式コンプレツサー一台およびA重油を積載して運転し、今治市常盤町四丁目九の四、清水クリーニング店(経営者矢野明)前路上にいたつて駐車し、同クリーニング店にA重油約二〇〇リツトルを同店表側に設備されている給油口から店内ボイラー用タンクに給油するため、右コンプレツサーの吸入側ホースをドラム缶に連結し、送油側にビニール製ホース(直径約三・五センチメートル)を接続し、その一方を前記クリーニング店表側給油口に連結し、さらに、右コンプレツサーの電源コードを延ばして同店カウンター(高さ約八二センチメートル、幅約八〇センチメートル)のところで右矢野明に依頼して石油ストーブの近くのコンセントに挿入を受けたのち、右コンプレツサーを始動させてドラム缶内のA重油二〇〇リツトルを右店内ボイラー用タンクまで給油しようとしたが、石油類は引火しやすい危険物質であるから、前記石油ストーブを消火するは、もちろん周囲の火気の有無を点検し、かつ、右給油口のバルブが開かれていることを確認したうえ、右コンプレツサーを始動し、火災の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、前記石油ストーブが点火されているのを看過し、かつ、右給油口のバルブを開くのを失念し、閉鎖の状態にあることを気づかないまま右コンプレツサーを始動して給油を開始した過失により、前記給油用ビニール製ホースが破裂してA重油が周囲に飛散して、前記石油ストーブの火がこれに引火して、一瞬のうちに燃え拡がつて、火を失し、よつて、前記清水クリーニング店等が使用し矢野明外三名が現在する阿部真治所有の瓦葺木造二階建一棟(延面積約二八六・三三平方メートル)を焼燬したものである

というのである。

二、被告人の当公判廷における供述、同人の昭和五三年三月二三日付、同月三一日付、同年四月三日付各司法警察員に対する供述調書、同人の検察官に対する供述調書、第一回公判調書中の被告人の、第三回公判調書中の証人矢野明の、第四回公判調書中の証人越智益之の、第五回公判調書中の証人渡部勝春、同山内省三の各供述部分、証人矢野明に対する当裁判所の尋問調書、同証人の当公判廷における供述、司法警察員作成の実況見分調書(被告人のバルブの開閉に関する指示説明部分を除く)、当裁判所の検証調書および領置してあるビニールホース一本(昭和五三年押第七号の1)を綜合すると、次の事実が認められる。

被告人は、西日本石油瓦斯株式会社天保山営業所に勤務して、プロパンガスおよび石油類の配達給油等の業務に従事する者であるが、その業務に従事中の昭和五三年三月二三日午前一一時頃、軽四輪貨物自動車に電動式コンプレツサー一台およびA重油を入れたドラム缶(直径五八センチメートル、高さ九〇センチメートルの円筒形、二〇〇リツトル入り)を積載して運転し、今治市常盤町四丁目九の四清水クリーニング店(間口はほゞ南北に四・七三メートル、奥行はほゞ西から東方に向つて一二・四メートル)(経営者矢野明)の前(西側)の歩道上の北寄りに至つて駐車し、同店の表間口(ほゞ五等分され、南側に四枚の引戸、北側の引戸一枚相当部分は固定の出窓)北端において屋外に突出した隣家との隔壁南面に取付けられた給油口から、壁の中および店内に設備された内径二・五センチメートルの鉄管(途中に止栓はない)を通して店の奥(東南隅)に設置された貯油タンクにA重油約二〇〇リツトルを送るため、コンプレツサーの吸入側ホースをドラム缶に連結し、その送油側に連結してあつたビニールホース(内径三・二センチメートル、肉厚三ミリメートル、長さ三・〇九メートル、透明)の他の末端を右給油口に連結した後、コンプレツサーの電源コードを伸ばして、右四枚の引戸のうち中央の二枚が左右に開かれていたのでその開放口から店内に入り、入口のすぐ近く(引戸から約七〇センチメートル入つた位置)にあるカウンター(間口に平行し南北に三・七メートル、高さ八二センチメートル、幅八〇センチメートル)の上にコードの一端をまるめて置き、矢野に対しコンセントへの差込みを依頼して表に出、矢野はカウンター越しにその内側にあるコンセントにコードを接続した。被告人は、以上の送油準備を整えたものの、給油口の直下にあつたバルブを開くのを忘れて(「コンプレツサーの始動後数分経つて、音は少し小さいが自動車のタイヤがパンクしたようなパンという音がした」との被告人の供述は、右ビニールホースの破裂と同時に最初に噴出したものは、圧縮された空気で、それは、ドラム缶とコンプレツサーを継ぐ長さ九〇センチメートルを越えるホースおよびコンプレツサーと給油口を継ぐ三・〇九メートルのビニールホースならびにコンプレツサー中にその始動前に存在した空気が逃げ場を失つたものであつたことを推測せしめ、その破裂口が給油口の手前八八センチメートルの位置であつた事実と相俟つて、給油口は閉じていたことを推認できる。)給油口が閉じたまゝコンプレツサーのスイツチを入れて送油を開始したため、ビニールホースの給油口から八八センチメートルのほゞ地面に接する部分が、長さ一・八センチメートルの線状に裂け、ビニールホース内の右圧縮された残留空気と共に少量の重油(本件火災直後の右ドラム缶中には、重油が上蓋から一五センチメートルの高さまで残つていたので、その残量は計算上一九八リツトル余となり、ビニールホース等に残留する分も考えれば、仮に二〇〇リツトルより余分に積んでいたとしても、飛散した量は極めて少ない。)が互に混ざり合つて、右小さな裂け目から南東の方向に噴出し、それは恰も、噴霧器から液体を噴霧させたときのようで、その約四・三メートル先の末端面の直径が約三〇センチメートルに拡がつた円錐形になつて、右引戸の開かれた部分を通過して店内に入り、カウンターを越えたところで、たまたまその真下にあつた使用中の石油ストーブの火が、この霧状の重油に引火し、一瞬のうちにその周辺に多量に積み或は天井から吊り下げられていた衣類等のビニールカバー、包紙などの易燃物に燃え拡がり、よつて、矢野明外三名の人が現在する阿部真治所有の瓦葺木造二階建一棟(延面積二八六・三三平方メートル)を焼燬したが、被告人にとつて、ホースが破れ、しかもその穴から重油の飛沫が店内に飛び込むことなど予想だにしなかつたことであつた。

なお、被告人は右給油作業を開始するにあたり、右使用中の石油ストーブの存在に気付いていなかつたものであるが、それは、その当時の今治地方の気温は八・八度と比較的低温ではあつたが、表戸が開かれていたので店頭と屋外との温度差は人体に感じる程のものではなかつたし、又、右石油ストーブが、外から通常の姿勢でカウンターに近づく者にとつて、その上面の一部しか視界に入らず、視覚的にはその何であるかを判別しえない程度に、カウンターの反対側にこれに近づけて置かれていたので、電源コードの一端をまとめてカウンター上に置いてすぐ屋外に出た被告人にとつては、当然のことであつた。(司法警察員竹本務作成の昭和五三年四月一七日付捜査報告書には、このとき被告人には石油ストーブの上半分が見えた筈である旨の記載があるが、この報告書は、被告人がカウンターに接して立つたこと、即ち、目の位置がカウンターの外側面の延長面上にあつたことを前提とするが、その前提事実に証拠はなく、又、それが石油ストーブであることの先入観を有しない通常の人間の視覚を無視して、単に作図上の操作をするという誤りを犯しており、信用できない。)

又、清水クリーニング店においては、過去にも数回、配達人が給油口のバルブを開け忘れて給油を開始するという失敗をしたことがあつたが、そのいずれのときにも、ホースの車上のコンプレツサー側が外れて、車上に重油が流出しただけに止まつたし、清水クリーニング店の経営者たる矢野自身も、給油に際し重油が外から店内に飛び込んで来ることを危惧したことは一度もなかつた。

三、右認定の事実に基き被告人の過失の有無を検討する。

(一)  検察官は、被告人がコンプレツサーを始動させて送油を開始するにあたつて、石油類は引火しやすい危険物質であるから、

1、前記石油ストーブを消火するはもちろん周囲の火気の有無を点検し、

2、かつ、右給油口のバルブが開かれていることを確認したうえ、

コンプレツサーを始動し、火災の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り、前記石油ストーブが点火されているのを見落し、かつ右給油口のバルブを開くのを失念し、バルブの閉鎖の状態のまゝコンプレツサーを始動した点に過失がある旨主張する。

なるほど、A重油は消防法二条七項所定の危険物(発火性又は引火性物質)ではあるが、油滴のまゝでは簡単に燃焼するものではなく、また灯油や軽油にくらべて蒸発しにくいので、バーナーから噴射させて霧状とし、空気とよく混合させて燃焼をおこなうもの(小学館刊行、大日本百科事典九巻二二九頁参照)であつて、本件の場合は、重油のこの特性を前提に、前認定の諸事情、就中被告人のなした本件給油の作業は、電源との接続依頼を除き、他はすべて屋外におけるものであつたことに思いを致さなければならない。

そうして、電源との接続は矢野がなしたことであり、その依頼行為自体は本件事故と直接にかゝわりのないことがらであつた。

被告人は前記状況下で、給油口の開栓を忘れてコンプレツサーのスイツチを入れたのであつたが、通常ならばこの場合最も弱いコンプレツサーとの接合部が外れて、そこから重油が流れ出す筈であつたのに、今回はたまたま厚さ三ミリメートルもある送油途中のビニールホースが裂けたのであり、しかも、その裂け口から噴出する重油が適量に空気と混合して霧状となり、更には、それが一つの方向にまとまつて、作業をしていた位置より南寄りの開扉部から店内に飛び込み、カウンター越しに、たまたまその蔭にかくれていた石油ストーブの上に達して引火するという、偶然の上にも偶然の積み重なつた正に稀有な事態に立ち至つたのである。業務者としての被告人にとつても、それは全く予想を越える事態であつて、予見の不可能な結果であつたといわなければならない。

引火性の極めて高い危険物ならばいざしらず、屋外に通常存在する温度のもとで引火することは先ず考えられない上に、霧状として空気と混合することによつて燃焼させるのを通常とする重油を屋外で取扱う被告人に対し、他に具体的な危険を窺わせる特別の事情も認められないのに、なお、事前にあらゆる可能性を考え、これに対処すべく、火気の有無につき屋内のすみずみまで調査点検し、若し火気があれば、更に屋内に入つてこれを消さなければならない注意義務があるというのは、難きを強いるものというべきである。

なお、一般の来訪者にとつて、右石油ストーブを確知しえない状況にあつたことは、前認定のとおりである。

(二)  これを要するに、被告人がバルブの開栓を忘れてコンプレツサーを作動させたことは不注意な行為であつたといわざるをえないけれども、それはホース破裂の原因に止まり、被告人が右石油ストーブを見落して火を消さなかつた点については、前認定の状況下においては見落しそのものに被告人の過失を認めることはできないし、しかも、その石油ストーブの火によつて本件具体的結果の発生すべきことは予見できる状況になかつたのであるから、被告人がこれに気付いたとしても、わざわざ店内に入つて自ら消火し又は他人をして消火せしむべき注意義務があつたとすることもできない。

四、従つて、被告人に対し、本件結果について、刑事上罰すべき注意義務の違背を認めることができず、結局本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により無罪の言渡をする。

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